ミャンマー

Myanmar -Jottings

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ミャンマーは数年間行っていないが、タイに住んでいるこの10年間にも、有力な人脈が出来た。

ネットの環境が整い次第、出店計画中。不動産投資や宝石関連は、とっくに華僑に先行されている。

2012年3月


某氏のミャンマー出張レポート(2012年12月15−21日)


ヤンゴン空港に着きましたその日は、4年間の駐在を終え2001年の9月末に日本に帰国して以来11年を経過していました。空港ターミナルへ行くためのバスはすでに姿を消していて、機内よりは直行です。これなら大雨が降っても大丈夫。入国審査も手荷物検査もいたってスムース。ただ、市内は今やかなりな交通渋滞で、午前中に取引先を2社も回るのは至難の業とのこと。車の数が劇的に増えたのに加え、市内3箇所で立体交差の工事が同時並行的に進行中。完成すればぐっと流れはスムースになるのでしょう。

朝が早かったのでお腹がすきましたが、壱番館はまだやっているでしょうか、心配しました。が、ありましたありました、ここは駐在時代に足しげく通ったところです。当時、シンガポールからよく出張に来ていた会社の後輩みんなが好んで食べに来ていたところでもあります。ここの女将さんは阪神、淡路大震災にあった後、一念発起してご夫妻で勇躍新天地ヤンゴンに店を出したという決断力あるお方です。またこちらで働くことになりそうです。そうですかぜひ、またきてくださいね、駐在中はひいきにしてくださって有難う、なんて話をしていましたが、なんとこの3日前にバンコクのミャンマー大使館で小生を見かけたというではありませんか、ご夫妻でビザの申請にこられていたとのことでした。大使館内、ビザの申請者であまりの混雑振りに小生に声をかけるのはためらわれたとのことなんですが、いずれお店に来るでしょうとのご夫妻の推測は見事的中、小生いの一番に壱番館に行きお会いすることになりました。

ビザを取るうら技としては、体験的うら技ですが、小生受付締め切り12時少し前に大丈夫かなと思いつつだめもとで館内に入っていると、12時を回ってはいましたが、申請手続きを受け付けてもらえました。これですと@申請書類をまずチェックしてもらうAOKだと申請書類を提出して、番号札をもらうBビザ申請料金を支払い、領収書兼パスポートの受取証をもらう、という一連の手続きの完了まで小生の場合小1時間ですみました。ただ、通常パスポート(=ビザ)の受け取りが翌日となるところが、小生の場合は翌々日となりました。ですのでフライトに時間的余裕がないとダメです。
現在ミャンマー案件としては主なるもの3件。@インターネットTV。A縫製案件。B日本料理店出店(City Martというスーパーが市内に8店舗ほどお店を出しており、高級住宅街に隣接した店舗は、現地の舌の肥えた方々向け用と思われる)。またヤンゴン事務所については、ゴールデンフラワー社、社長より同社の事務所を無償にてお貸しいただけるということで一挙に解決、残るは住むところとなりました。

<ミャンマービザ取得ものがたり>

12月11日(火)にミャンマー大使館に出向きビザ申請。大使館についた時には、すでに11時をまわっていた。12時の受付締め切り時間までに間に合うのかと心配しながら、まずは写真撮影。大使館入り口の斜め前のビルには、日本の駅前にあるような3分間撮影機が準備よく設置されておりここで撮影。次に申請書の入手は、撮影機の奥にコピー屋さんがあるので1枚6バーツで入手。入手の申請書に必要事項を書き込みを終えるとまだ11時45分、あと15分あるので大丈夫かなあと思いながら観光ビザ窓口の列の最後尾に並ぶ。窓口は4つあって向かって右側から1番窓口ビジネスビザ、2番窓口エクスプレス、3番窓口タイ国籍、4番窓口観光ビザ。

まず観光ビザ窓口で書類を提出すると書類のチェックを受けます。OKとなりますと、番号札を渡されて呼ばれるまで待ちます。番号呼ばれたら観光用ビザなら810バーツを支払います。支払い時に領収書とビザ引換券(=パスポート引換券)をもらいます。通常は、翌日の3時半から4時半の間に引き換えを受けるのですが、小生の場合ヤンゴンへ入る飛行機が15日とまだ間があったことと申請した時間が実際には12時を過ぎていたからかと思われますが翌々日の13日となりました。ビザ取得の感想を一言でいいますと、すごい人、ということになります。

  
次は、ミャンマーに対する小生なりの印象です:

例えば稲作ですが、大地は肥沃ですので、1年に3回でも4回でも水さえあれば収穫できます。イラワジ川に代表される表流水はむろんのこと地下水もあり豊かな水に恵まれています。美味しいミャンマー ビールは美味しい地下水のおかげと聞いています。石油は、ほぼ百年前から出ていますし、今ではアンダマン海より天然ガスを産出し、タイ側へパイプラインで送られ発電機のタービンをまわしタイの電力供給に寄与し、貴重な外貨の収入源となっています。その他、鉄鉱石、石炭、銅、錫、鉛、亜鉛、金、銀、ルビーに翡翠にレアアースにいたるまで地下に眠っています。開発していないだけなのです。いまのところ幸いにも乱開発を免れている森林資源も豊かです。

豊かな天然資源のみならず、人的資源なんて言いますと叱られるかもしれませんが、人口は約6千万人、そのほとんどが敬虔な仏教徒です。学校の費用を支払う余裕のない貧しい家庭の子供でも全国に数あるお寺のお坊さんから読み書き算数を無料で習うことができます。識字率は高く、みなさん賢いです。ビジネスを通しての係わり合いの中での話しですが、こちらが誠意を持ってつくすとそれが倍ぐらいになって返ってくるとの印象を持ちました。気持ちの暖かな人情味あふれる方々でもあるんです。ミャンマーを一言でいいますと、いい国だなー、となります。

以上。

ミャンマーでもインターネットTV 投資相談等(元ヤンゴン駐在の商社マン)は


(2000 年10月)

1. Myanmarには タイ北部の国境とか雲南省の国境より 日帰りで入ったことがあるが、 空路Yangonに入ったのは1999年11月が初めて。 雲南省産の肥料の売込み、及び中国のContractorがMyanmarで工事中の水力発電所案件で使う 建設機械の件で出張した。 雲南省の肥料は既にブランドがMyanmar
Marketに受け入れられている。

2. Myanmarの北半分は雲南省出身の華僑が多く,雲南省からの投資も多い。農機やトラックも中国よりの輸出が多い。 一方南半分は福建省出身の華僑が多いので、Singaporの投資が多いのはその為かもしれない。

3. 雲南省との国境の山には松茸が取れるが,陸路雲南省に運ばれ,雲南松茸として日本向けに出荷されている。  国境地帯の少数民族 カチン族は 雲南省のジンポー族と同じで親類も多い。
 国境は 小川が国境だったり 道に国名が表裏に書かれてある石が置いてあるだけのところも多く、村を横切って国境線となっているところもある。

4. Golf場には球ひろいのCaddieがいて、球をフェアウエイに出して草をつまんでその上にボールを置いてくれる(パゴダショットと言うらしい)。 軍人優先で朝早く1人で回っている軍人に対してはコースを譲らねばならない由。

5. 案内してくれた日本留学経験のあるミャンマー人に、ファッションモデルのグループを紹介すると言われたが、スケジュールの都合で実現せず。 今でも心残り?

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ウ・オッタマ僧正(ビルマ独立の父) http://sinzitusikan.iza.ne.jp/blog/entry/531557/

 ウ・オッタマ僧正は若いころイギリスに留学して、帰国後、抗英独立運動を唱えて投獄された。 出所後、小国日本が、超大国ロシアに、日露戦争に勝ったことに感動し、1907年(明治40)、来日して全国を巡行した。

 まず京都・浄土真宗本願寺の探検家でもあった大谷光瑞を訪ね、そこから東京まで各界の人たちに接しようと、東京まで歩く予定でいた。たまたま名古屋で大きな葬式に出あった。オッタマにとって日本の葬式は珍しいので、門の前でじっと様子を眺めていると、家人がカーキ色の法衣をまとった旅僧のオッタマを見つけ、ありがたそうに、お経のひとつでも上げてもらえれば、功徳になると、丁重に家に招きいれた。

 この家の当主は、オッタマに魅せられ、家に引きとめ、オッタマは何日も滞在した。この当主こそ、松坂屋伊藤次郎左衛門だった。伊藤次郎左衛門は名古屋の豪商である。オッタマを3年間、面倒を見て、妹まで日本に呼んだ。伊藤次郎左衛門はオッタマを精神的にも、経済的にも支援した。オッタマはその間、日本を学び、東大で仏教哲学も教えた。当時のビルマはイギリスの植民地。オッタマはその独立のために日本で学んだ。

 第2次世界大戦後、独立を果たしたビルマはその後、ミャンマーとなったが、鎖国のような状態でも、伊藤家への恩義を忘れず、関係者は入国するのも容易な手続きですむという。ビルマのオッタマ僧を支援

 そしてその得た結論を『日本』という著書に集約した。その中で「日本の興隆と戦勝の真因は明治天皇を中心にして青年が団結して起ったからである。われわれも仏陀の教えを中心に青年が団結、決起すれば、必ず独立を勝ち取ることができる。」「長年のイギリスの桎梏(しっこく)からのがれるには、日本にたよる以外に道はない」と主張した。この著書が、独立を志向するビルマ青年のバイブルとなり、1930年に「タキン党」(われらビルマ人党)が、結成された。「タキン党」で学生運動のリーダーとして活躍したのがアウン・サンやウ・ヌーらである。後年、タキン党の青年志士30人が、密出国して海南島や台湾で日本式軍事訓練を受け、大東亜戦争を日本軍と共に戦い、遂に独立を果たした。その主導者がアウン・サンで、スーチー女史は、このアウン・サンの娘なのだ。

 オッタマは何度も投獄、出獄を繰り返し、ついに1939年に獄死、牢で生涯を終えた。僧正の死後ラングーンに開設された「オッタマ日本語学校」は、ビルマにおける日本語普及の魁となった。ウ・オッタマ僧正はビルマ 独立の父である。

ウ・オッタマ僧正は、日本隆盛の源を、喝破したのだ。

 倒幕の志士高杉晋作上海の見聞記録「中国人はほとんどが外国人の召使のようだ。英仏の人が街を歩けば、中国の人は傍によって道を譲る。上海は中国の領土だが、英仏の植民地とも言える」と記されている。

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元、ヤンゴン(ラングーン)駐在の元商社マンより投稿(管理人の知人)- 今は昔の物語?

入札 (in1999):

政府の買い付けは大体はテンダー。しかし、1番札を取ったからといって商売取れません。入札後にビッダー全員を集めての更なる値引き会が開かれるのです。ここで最低価格を申告しないと契約取れません。

で、こんなことありました。農業省が日本政府の援助で何年も前に設置したクボタの灌漑用ポンプが老朽化しバルブなどの部品を大々的に取り替えなければもう動かないという事態になりました。本来であれば以前にこの仕事を取った商社へ引き合いがゆくはずだったのでしょうが、日頃から農業省によく出入りしているナショナルスタッフがうまいことこの引き合いを取ってきたのです。これは、チャンス到来です。いつもはテンダーだろうけれどクボタは最初に引き合いを持って行ったところにしかオッファー出さないですのでテンダーにはなりえません、弊社1社が値段出しますけどそれでいいですね、と農業省に説明、はれてOK取れましたので、値段提出。しかしああでもないこうでもないと再三再四の値引き要求。本社の絶大なるサポートを得つつ、こちらもだんだんに値引き幅を少なくしてこれによく対応。最終的に農業大臣より直接の了解も取りつけ、ヤッターと快哉を叫んでいたところ、農業大臣より急な呼び出し。ウワー!また値引きかと、取るものもとりあえず行きますと、大臣曰く、次回開催される値引き会にあなたは出なくてはいけない、これはテンダーではないのだけれど出なくてはいけない。ついてはひとつ約束をしてもらいたい事がある。もしまだ値段を引けるなら今ここで引きなさい。ここで引いて値引き会ではもう決して値段を引いてはいけない、いいですね。もし値引き会で値段を引くようなことがあると私の面子が潰れますよ、とのこと。

ああ、そういうことなら簡単だ、別にどうということもない、いつもは2番札との差を如何に少なくして1番札を取るかで悩むわけで、今回は値段引かなくていいわけで、はい、わかりました、もう引けません、ここでも値引き会の場でも引きません、ということで帰りました。値段引かないのは簡単だNO、NOといっていればいいんだから、と考えた訳ですがこの考えは甘くあとでこっぴどい目に会う羽目となりました。

さて、その値段を引いてはいけない値引き会当日、小生が1番バッターということなので早々と8時前に受付を済ませて待機。ところが待てど暮らせどお呼びがかかりません。小1時間も待ったでしょうか、やっと呼ばれて会議室に入りますと正面にいつも座っています、内務大臣の姿見えません。あれー、いないや、とは思いましたが、別にいてもいなくても関係ないや、どうせ値段引かないんだからと思っていますと、値段交渉がはじまりまして、いくら引くのですか。いえいえ、もう目いっぱい引いていますので引けません。いえいえ、引かなくてはいけません、いくら引くのですか。いえいえ、もうMAX引いているので、もう引けませんの応酬。なんでこんなにしつこいのかと思いましたが、かれら不在の大臣が帰ってきたらいいところをみせようと必死になっている模様。こちらも農業大臣に約束しましたので引くに引けません。なんど聞かれましても、答えはNOです。こんなやり取りが30分も続いたでしょうか、外へ出なさい、ということになりました。うわー、助かった!と思ったのは大間違いで、なんじゃない、大臣が帰ってきたらまた呼ぶのでそれまで外で待っていなさいということだったんです。

大臣帰って来ましたが、それから延々と待たされまして結局呼ばれたのは一番最後。小生、会場に再登場し、第2ラウンド開始。今度は大臣直々に引け引け、こっちはNO、NO。そのうち取り巻きも束になって引け引け、こっちはNO、NO。あなたはわかっているでしょう、ここは値段を引くところなのですよ、さあ引きなさい。NO、NO。あなたはいつもここへ来てドラマチックに値段引いているではないですか、さあいくら引くんですか。NO、NOというのは簡単だけれど、向こうは30人ほど、こちらは1人、なにせ多勢に無勢。それにこちらはいつ呼ばれるのか、今か今かと朝から待たされているわけで何も食べていません。ふと目をやりますと向こう30人の机の上にはなにやらサンドイッチ、クッキーのような食料が乗っているのが見えます。さらにこっちはずーっと朝から何時間も猛暑の中を外で待っているのに対し彼らは効きは悪いとはいえクーラーの部屋にいるわけでこちらは大きなハンディーをしょっての戦い。また最初にもどっていくら引くのですかが延々と続いていて、もう0.1%でも0.2%でも引いて早くここから出よう、出たい、出るのだー!と思い、発作的に立ち上がりました、すると、MR.X、上着は脱いでもいいですけど、パンツ(ズボンのこと)まで脱いではいけませんよ、と大臣秘書氏がジョークを飛ばしてくれたのです。と、あーら不思議、会場の雰囲気がガラッと変わりました。もう許してやろうかの空気が広がりました。小生としては、引くーー!と言おうと思い、気合を入れいるためにやや発作的に立ち上がって上着を脱いだのです。ですので、この大臣秘書氏のジョークがタイミングよく発せられなければ値段引いていたわけです。どうやら敵は、小生が怒り出したと思ったようなのでした。今度出てきたときは、またいつものように値段引くのですよ。もちろんもちろん。ということでやっと無罪放免となりました。
その後農業省にいきますとあの値引き会に出て値段を引かなかったのは、あなただけだ、日本のサムライ、などとも言われてちょっとよい気分でした。ところがところがです、この事件があってしばらくすると農業大臣からまた呼び出しがありました、すぐにこいというのです。なんだろうといってみますと、これがいいお話しなのです。ミャンマーは農業大国でお米をたくさん作っています、灌漑用のダムがいくつも要るというのです。このダム建設用にブルドーザー、ダンプトラック、いすゞの10tトラック、エクスカベーターなどをすぐにオッファーしてくれというのです。しかもテンダーにはしないので他社に引き合いがでるようなことはない、前回のように私との値段交渉ですべて決着する、と。

これは、大臣の言葉通りとなり、4千万ドルの成約となりました。その後も商売継続しました。ミャンマーでの忘れられない出来事のひとつとなりました。
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寺子屋 (in 1997-2001):

ヤンゴン支店に赴任してまだ間もないころのこと、机の上の電話がリーンリーンと鳴りました、ウーン、何かなと思って出ますと、びっくりしましたが在ミャンマー日本大使館の書記官殿(当時、建設省ご出身)からです。いったいなんだろうとお話を聞きますと、その書記官殿曰く、私はミャンマーへ来て3年目。日本政府の経済援助による小学校を建てようと思っていろいろやっているのだけれど、どうもうまくいかない。JICAに相談したり直接ミャンマー政府の教育大臣に話をしに行ったりしているのだがどうも話しが前に進まなくて困っている。ところで御社は周辺諸国で小学校を建設しているとも聞いているが、興味はないですか、と言われましたので、ああ、これはやれといっているんだなと小生、受け取りました。その場ですぐに大いに興味あります、といいましたところそれでは大使館の方まで来てください、今までの経緯をご説明しましょうということになりました。

当時(今もですが)ミャンマーは軍事政権でこれを嫌って西欧諸国は経済制裁しており日本も右へならえだったのですが、戦前からの深い関わり、また戦後賠償ではいの一番に低い金額で応じてくれて助けられたというような経緯もあり日本政府としてはなんとか援助をしたい、してあげたいという姿勢で欧米諸国とは一味違っていました。ということで、おおっぴらにはできないけれどさいわい草の根無償というのがあるのでこれで行きましょう。1件あたり1千万円以下ということですから、ミャンマーで木造校舎ならこの範囲内だし、きっと何校舎もできるでしょう、まず10校舎ほどいってみましょうか、ただお骨折りいただく商社には、ボランティア活動になってしまうので申し訳ないですね。いえいえ、そんなことないです、喜んでさせていただきます、と言うことで話はすぐに前進。

こちらは、そうそうに行動開始。まずは申請書作りです。ミャンマー政府、教育省にも相談の上、10校をピックアップ、実際に現地に行きますとすごいです、朽ち果てているとは申しませんが、すさまじいです。まずは校長先生に面談、申請書を完成、現校舎のすさまじい写真も添付、これに3社見積もりを添えて書記官殿に提出しますと、程なくしてOKの回答。次に、建設業者ですが、これは亜鉛鉄板工場合弁先が建設部門を持っていますのでこちらのウィンアウン社長に話をつけてすぐに決定。手抜き工事とかさらにひどいのは工事途中で建設費を持ち逃げされたなんていう話もありますので、注意を要しますが、ダゴンは信頼おけます。ただ、仕上がり具合はこちらでも定期的にちゃんとチェックの必要ありです。これが結構きついのです。書記官殿の要請によりなるべく郊外、なるべく一地域にかたまらずにばらけて、ということで、10校まわるのに丸1日がかりになります。書記官殿の言っていた、ボランテア活動になってしまうので申し訳なのだけれどの意味をここで理解します。ただ、この小学校建設を通じて感じたのですが、学校ができますとその小学校の先生、生徒はもちろんのこと、父兄と地域の方々、教育関係者、政府の上層部にまでと皆様にたいへん喜ばれ、感謝もされました、これはなにごとにも変えがたいものと感じました。このような感激にもひたりながら次々と校舎が完成。

完成しますと次は、引渡しとなります。日本政府からミャンマー政府に対しての校舎の引渡し式をやるのですが、これをことさらおおげさに仰々しくやるのです。日本政府、ミャンマー政府へのアピールです。まずは、日本大使のアポイントを取得、ほぼ同時並行的にミャンマー政府高官、当時の実力NO2であるキンニュン書記のアポイントを取得。ここまで手配しますと後はほうっておいてもテレビも新聞も来てくれます。4年間の赴任期間中になんと33校が建ちましたので、引渡し式も数を数え、そのたびに新聞に載りテレビに何度も映りました、これ本当の話。

こうして最初の引き渡し式が済みますと、最初は半信半疑であったミャンマー側の関係者もがぜん力の入り方が違ってきます。中学校が併設されているところはどうだろうか是非立て替えたいとの要望。大使館にお願いしてOK取得。ミャンマーは仏教の国で数あるお寺に併設されている小学校も老朽化しており立て替えたいがどうか。これも大使館にお願いしてOK。次の小学校では建設業者を教育省の方で選定させてくれ等など、そのつど答えることが出来るものには誠意を尽くしてお答えしておりました。こうしてああだこうだとやっているうちに最初はミャンマー政府との間の小さなパイプだったものがだんだんに大きく太くなってきたのです。ミャンマー政府の教育関係を見ているNO.2の実力者、彼はインテリジェンスのトップでもあるのですが、人を介して(No.2の右腕に)、あなたのおかげで小学校がたくさん建った、本当によくやってくれている、有難う。もし希望、要望があったら言ってくれできるだけのことをしよう、と言ってもらいました。これは本当にびっくりしました、驚愕しました。そしてうわー、やったと心の中で叫びました。大きな商売取れるぞー、間違いないと思いました。ただ、この直後に本社では会社分割による鉄鋼部門の他社との統合そして新会社発足が本決まりとなり急遽帰国となりました。ちょっと惜しかったなあとは今でも時々思います。そしてまた行ってみたいなあとも思います。

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ヤンゴン以外の都市のお寺周り

Baganという町の丘に登りますと何千というパゴダを一望にすることが出来ます。
インレー湖という大きな湖ありますが、そこに浮かぶように建っているホテルに一泊 なんていうのも実に趣きあります。

10何年前の話ではありますが、ほとんど何も変わっていないかと思います。
静かな朝もやの中、湖面でさかなのはねる音が聞こえます。チャポーン!なんともいい感じです。

有名なマンダレーの町は、町中が漢字だらけです(マンダレー以北は中国の経済圏に?)。

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